長谷川浩意見書
活動の総括とその提起するもの(第三回党大会の成功のために)
「共産主義労働者党」機関紙 統一 第323号 昭和44年(1969年)5月12日発行
長谷川浩
総括
1、総括の基本的態度
七〇年を目前にして、反安保の闘争を徹底して闘いぬくためには過去一年余のわが党の活動を曖昧にすることなく総括し、大衆の要求と行動から真剣に教訓を学びとることが決定的に重要である。
われわれの総括の態度は、科学的社会主義、マルクス・レーニン主義に導かれる労働者階級の党としてのわが党独自の立場に立つものであり、それゆえに自らを最もきびしく点検する。
われわれは、この党の立場から「わが党を初め社共の左に進出した新しい戦闘的左翼」としてわが党を左翼諸党派と同列におき、あるいは諸党派一般に解消することはがまんならない。また、単なる「労働者反戦派・職場反戦派の党」に止まることもできない。反戦運動・労働運動・農民運動・学生運動・市民運動等々すべての分野と階層の具体的な闘争を通じて力の及ぶ限り革命の道を追求する党として自らを点検し鍛えてゆかねばならない。その意味で、たとえ好ましくないと感ぜられる問題でも、事実をありのままに具体的に直視しなければならぬ。
それは周知のように、今日、社会党がますます弱体をばくろし労働者の前衛と自称する共産党が議会主義に転落し、これに反発し対立する左翼諸党派が各々自己の正当性のみを主張して主導権を争い、戦線を混乱させているなかで、独占資本の支配に対立するすべての階層を領導し統一する労働者階級の革命的立場を明確にしてわが国における階級闘争の法則性を追求するうえで、このことがとりわけ重要となっているからである。
事態を掘り下げることなく、バラ色のムードをもってしても、革命は前進しない。
2、エンタプライズ寄港反対闘争の意義
「七〇年安保闘争」はすでに始まっている。そしてその端緒は一昨年秋の羽田闘争にあるといわれる。たしかにそれは「七〇年安保」を意識した学生の街頭行動・ラジカリズムの発端であり、日韓条約反対闘争以来とみに強化された弾圧体制に反発するものとしてまた、今日の一般的ニヒルな気分を反映して、一定の客観的理由をもつものであった。
しかし、「七〇年安保闘争」と七〇年代の階級闘争に、真に大衆的な発展の展望を与えたものは、昨年初頭の佐世保におけるエンタープライズ寄港反対の大衆行動である。
ここでも、学生部隊の行動は起爆的役割りを果たした。だが、佐世保の闘争が広範な層に闘争の確信を与え、その後の運動の発展を導いたのは、この闘争に佐世保SSKの労働者をふくめて、総評系・総同盟系の労働者、基地佐世保の市民、無党派進歩勢力がこぞって立ち上がったからである。この大衆的な動きに社、共、公明、民社の議会政党も動かざるをえなかった。各党各派の指導部のセクト主義から組織的な行動の統一は達成されなかったとはいえ、大衆は幹部の締付をのりこえ狼狽する彼らと尻目に、警官隊の暴力弾圧に共同行動をもって反撃した。
わが党は佐世保地区委員会を根拠に、この大衆的な連帯行動を推進することに全力を傾けた。
エンタープライズ寄港反対闘争の与えた数多くの示唆は重要である。
それは現行安保条約が締結されて十年、とくにアメリカのベトナム侵略に支配階級が積極的に協力し、直接その基地とされてきたわが国において、急速な産業の高成長と社会生活の近代化にもかかわらず、労働者と勤労人民の不満と政治不信はますます根深いものであることを示した。そしていまベトナム侵略におけるアメリカの敗北とその権威の失墜は、意識されると否とにかかわらず、権力にお対する抗議と反撃の意識を培い、いついかなる契機で爆発するかもしれない闘いのエネルギーを貯え、発展の可能性を秘めている。その点ではいわゆる「体制内化」された総同盟・総評の下部組合員も少しもかわらない。そしてこの力に依拠するなら、広範な市民層をふくめて行動の統一は可能である。
さればこそ、佐世保の闘争は支配階級とその政府に深刻な脅威を与え、人民の広範な層の勇気を鼓吹したのである。
3、王子野戦病院撤去の闘い
佐世保の闘争が「七〇年安保闘争」に重要な示唆を与えるとともに、とりわけ米軍基地撤去の闘争課題を改めて提起したのに応じて、わが党は東京北部地区員会を中心に王子米軍野戦病院開設反対の闘争を積極的に取り上げた。
二月下旬、従来の「米軍ベトナム野戦病院設置反対連絡会議」が代々木共産党の学生・反戦青年委員会に対するセクト的態度から分解し機能を喪失するにいたって、党は二・二〇の統一行動を出発点とするあらたな闘争の組織のイニシャチブをとった。たしかに闘争の初期において行動を激発すえで大きな役割を果たしたものは、ここでも「中核」その他の学生部隊であり、党も自治会共闘の学生、ベイ平連などに動員を訴えた。だが、三月十八日の開院強行と前後して「ゲバルトをただ止めろというだけではだめだ。地元が立ち上がらなければいけないのだ」という声がたかまり、地元区民の自主的な行動と組織が発展した。とくに開院が強行されべトナムからの傷病兵が送りこまれてくると地元の人びとはいっそうベトナム戦争を身近かに感ぜざるをえなかった。「昼は地元保守派ボスの牛耳る町内会主催のエプロンデモに参加し、三派全学連の暴力反対のビラを貼らされ」「夜はそのビラをはがして『反対する会』の『我家は野戦病院に反対する』のステッカーを貼る」「二つの顔をもつ区民」が次第に増していった(以上北部地区委員会ならびに都委員会青対部「中間報告」から)。
抗議の統一行動が二・二七、三・三、三・八をへて三・二八から四・一にいたる連続行動として展開されるなかで、地区党は何よりもこのような地元区民の自主的な運動と組織の発展のために一貫した努力を傾けた。
こうして王子野戦病院撤去闘争は「うちなるベトナム」のたたかい(青対部)、「首都に持ちこまれたベトナム戦争」に反対する闘争(北部地区委員会)としてたたかわれた。
たしかに大衆運動の次元ではそれはベトナム反戦の闘争であった。しかし同時にそれは砂川・板付の基地反対闘争、さらには水戸射撃場撤去と新島移転反対闘争など一連の全国的な基地反対闘争の一環であり、安保条約による日米軍事同盟を撤廃する日本人民の歴史的な闘争を継承・発展させたものである。そしてそれゆえにこそその根底には日本革命への課題とたたかいがある。
北部地区委員会の中間総括は、全国闘争の一環として現地闘争として、たしかに行動部隊を全国動員して王子に投入したとはいえ「七〇年へ向けてたたかうための党の全国組織の体制づくりにおいて、地域別・戦線別にかなりの不均衡をうみ出し」、また「現地闘争における地域住民の直接民主主義要求運動としての方向付けが指導面で弱かった」と指摘する。
ここに提起された問題の底には反戦運動を反戦運動としてのみ捉えるというよりむしろ反戦運動をそれ自体を革命運動と捉えて全国的カンパニアの連続的な行動のみを強調し、全国的な闘争のうちにも各階層・各地域に住民を規定しているわが国革命の歴史的条件・諸課題の関連を見抜く党の視点・革命運動の視点の不明確性に対する疑問と批判があると考えられる。
この闘争の過程において、党は再三活動者会議をひらき、意志統一を行なって組織的な活動を展開することに努めた。しかし、全国闘争と現地闘争の関連は必ずしも明確な結論を得られず、中央常任委員会と都委員会から編成された現地指導部は「固定せず」機能をほとんど発揮しなかった。
こうして王子野戦病院反対運動は四月八日の集会・デモが禁止されたなかで、果敢な非合法でも遂行しゲイト前に座りこみをたたかいとったが、爾来漸次困難が加重されるようになった。同時に党の主たる関心も六月行動から八月沖縄原水禁大会、米タン輸送反対闘争とカンパニアを追って自然に王子から離れ、たたかいは地元同志のたゆまぬ活動のみに任される状態となった。しかし今日なおこのたたかいがねばり強くつづけられているところに「地元住民の直接民主主義要求運動」のエネルギーがあり、また「七〇年安保」の全国闘争をたたかう原動力ある。そしてこの区民のたたかいを支えるものものとして、経営細胞を基礎に居住の党員を結集した地区党組織が厳として存在したということは、政策上になお問題があったとしても、党の組織上に重要な教訓を与えている。
4、「六月行動」の意味するもの
日高氏らを呼びかけ人とするベトナム反戦の国際連帯行動は、一面では佐世保闘争から王子、三里塚の闘争をへて高揚した昨春の反戦闘争の頂点であるとともに、他面ではそのうちにあっての各派の激しい指導権争いをばくろする最初の契機であった。
六月行動をもりあげた一要因、三里塚について触れるなら、それは独占資本と政府の全般的産業近代化政策に対する農民の土地と農業を防衛する抵抗を軸とするものであった。わが党は王子の闘争に全力を傾け、この闘争に十分取組まなかったが、そこにはこのような問題の意義と発展方向を明確にする上での立遅れもあった。
地元農民のこの闘争の支援に最も力を入れたのは「中核」派を中心に“三派全学連”であったことはいうまでもない。そしてその「ゲバ棒」戦術は農民闘争の固有の性格もあって、一定の共感をもってうけいれられ、代々木共産党・民青の合法主義は無惨にその醜態をさらけだした。
しかし、この時点ですでに激化していた東大・日大を始めとする学園闘争とも関連して、三派全学連・自治会共闘と代々木共産党・民青の対立だけでなく、三派全学連内部の各派の対立・抗争がようやく先鋭化していった。
六月十五日の統一行動は、こうして昼の部ではベ平連その他の民主団体・各地の進歩的グループの動員を基礎に一万をこえる大衆を結集し、その後においても各地ベ平連グループを生みだす成果をあげながら、夜の部では日比谷野外音楽堂を埋める労働者・学生の面前で「中核」と「革マル」が正面衝突し、デモは全く支離滅裂となった。
爾来、「中核」「ブント」など対「革マル」「解放」の対立はますます激しく、そのことが積年の代々木共産党・民青のセクト主義との対立・闘争に加えて、その後の学生運動・反戦運動を制約する否定できない一条件となった。
われわれにとってこの対立の根拠とされているものに余り重要な意識をもたない。しかし、こうした客観的な不統一状態は、自主的な大衆行動の立場から無視することはできない。その意味でわれわれはこうした対立の基礎にある主観主義とセクト的なエリート意識――階級の利益と解放のためにたたかい大衆自身の行動を発展させることに貢献するのではなく自派の主張に大衆を従属させ運動を従属させようとする誤った指導者意識に対してはきびしい批判をもつ。代々木共産党とも共通するこのような自己中心主義は戦線を分裂に導くだけであり、本来労働者階級のものではなく、小ブルジョア思想であり議会主義とラジカリズムの共通の基盤である。
まさに、このような思想的分岐と戦線の混乱のなかでこそ、労働者の階級的立場を明確にする思想とこれに基づくわが党の政策が要求されるのであり、これを保障する党組織党機関の民主集中的な活動が必要となる。
5、10,21をめぐって
一昨年秋の羽田における佐藤訪ベト反対闘争で殺された山崎青年の一周年を記念して、共同で抗議と追悼の大衆集会・デモを行なおうという提案が砂川の宮岡氏、三里塚の戸村氏、物理学者の水戸氏らを呼びかけ人として提起され準備される過程で、行動の基本目標をどこにおくか各派の主張が入り乱れるとともに、その指導権争いは一段とすすんだ。だが結局問題の焦点はさきの六・一五問題にあり、「中核」の自己批判を要求する「各マル」「解放」派と「中核」その他が分裂し、各派それぞれ別個の行動をとるにいたった。その中で「五万人合理化反対」闘争を契機に国鉄の現場の労働者・活動家がもりあげてきた「米タン輸送反対」の闘争が大きく浮びあがった。とくに国鉄労組幹部がこれを当局との取引の材料として米タン増発を延期することを条件に闘争を中断するにいたって「民同指導下の組合」に対する不信と企業の外からこれを突破しようというラジカルな空気が急速にたかまった。こうして一〇・八、一〇・二一の新宿における駅占拠と街頭戦が遂行された。国鉄当局と政府は大きな打撃をうけ、遂に騒乱罪を適用して弾圧にのりだした。
このような行動が一定の政治的条件のもとで一定の目標に対して行なわれる必要がることは確かである。しかしその場合、問題の政治ばくろと行動の意義が徹底的に宣伝されなければならない。新宿の闘争が米タン輸送の危険とその政治的意義を大衆に明らかにしたえたであろうか。それは政府・マスコミ機関の「騒乱」の宣伝にかき消されたのではないか。
さらにこれは国鉄労働者の自発的な軍事輸送拒否の行動を再組織し発展させる行動とは異なるものであり、従って佐世保の闘争に内在する革命的なものとも性格を異にする。佐世保ではSSKの労働者が総同盟幹部をのりこえて自主的に立上がり組織的に行動した。新宿では労働者はあたかも「路傍の市民」であるかのようにして参加し非組織的に行動する以外になく階級を一般市民に解消する危険さえ感じられた。もちろん、国鉄労働者も動かなかったし、動きようもなかった。
この闘争はまだ王子の闘争とも性格を異にする。ここでも組織されない市民が学生のラジカルな行動に刺激されて街頭行動に参加した(今日政治に対する不信不満が明確に政治闘争の方向を与えられぬままに堆積している状況のもとでは、こうしたことは何時でも起こりうる。問題はこれに方向を与え組織することにある)。だが、王子の闘争の根底には、少ないといえども、経営を基礎としたわが党の細胞の組織があり、労働者階級の政治的ヘゲモニーの基礎がある。さればこそ、市民一般を組織された市民に成長させる端緒がひらかれ、「野戦病院の移転」ではなく「撤去」でなければならぬという意識を組織的な行動にまで育てあげてきているのである(本年四月一日デモ)。
このような闘争の質的な相異ははっきり確認されなければならない。労働者の階級としての革命における指導性・政治的ヘゲモニーを保障することにこそ、共産主義的党の第一義的任務があるからである。
これと関連して、わが党にとってより直接的に重要な問題であったのは、各派の対立と行動の分裂がすすむなかで、党自体の基本的態度と具体的行動方針が明確を欠き、組織全体の意志統一が行なわれぬままに行動スケジュールを追ったということである。
その結果、下部では「中核」とはげしい党派闘争を迫られているとき、上部では「中核」と共同の集会を組織する、一部の部隊は「革マル」「解放」派と統一行動をすすめるという現象が生まれた。その上、統社同との「前衛党結成」を目指す統一も間近いという話まで伝えられた。
「一体わが党は何を目指しているのか」という疑問が生まれ「七〇年に向かってどうたたかうのか」という声が上がったのも当然である。それは単なる「ぬきんでた党の旗印」ではなく、実践的なたたかいの指針と独自の原則的立場の明確化の要求である。
東京都党は九月臨時党会議をひらき、機関紙「統一」の四ページ化に備えるとともに、秋の闘争を控えて、地区細胞ブロック結成を主軸とする党建設と反戦青年委員会活動を職場を基礎に推進する方針を決定していた。
しかし、集会・デモを相つぎこれに追われて具体的行動の方針・総括を掘り下げて討議する余裕がなく、中間機関はただ闘争スケジュールを伝達するだけに終わった。
春の闘争では、集会・デモへの動員を組織するうえで活発に活動し、研究・討論集会なども計画的に進めてきた都委員会青対部は、その指導部内の意志不統一の問題も手伝って相つぐ大衆行動の組織的動員体制をとれなくなった。というよりはむしろ、青年労働者党員の活動の発展が、従来の動員組織的性格を主とした青対部の体制を不適当なものにしていたのである。
さらにこの間の機関紙活動についてみるなら、その読者の三分の一以上を占める東京では、漸次読者層が従来の層から若い層、主として学生、知識人層に移り、経営の部面ではほとんど増部はみられず結局増減差引き一〇部増に止まった。この傾向は全国的にも、労働者層で増さず学生層で増やすという形であらわれているように考えられる。
党員数は、東京では春の王子闘争の時期には漸増していたが、秋にはほとんど入党者を数えることができなかった。
1・17年頭政治集会の教訓
こうした状態の中で、東京都党では細胞から「独自の大衆集会を開け」という提案が出された。
都委員会はこの提案をうけて中央常任委員会と協力して十分な準備期間をとって、六九年年頭に千人規模の大衆集会を組織し「七〇年安保闘争」に臨む党の基本方針を打出す計画をたてた。その準備過程で一〇・二一を中心とする秋の闘争の総括をする討論集会を行い都委員会としての「七〇年闘争と七〇年代闘争の展望」に関する討論を行なった。しかし、総括討論集会は討論にならず失敗し、都委員会の討議は一定の基本問題について見解をまとめたまま、具体的な問題に立入らぬまま中断されている。
そうした条件のもとで、都党の細胞は一・一七年頭集会の動員を成功させるために全力をあげた。
それと同時に、同志たち、とくに若い同志たちは中央常任委員会との政治的意志の統一をはかるために努力した。「七〇年安保」を日本の社会主義革命との関連においてたたかう党独自の方針を全党の力で作りあげ、年頭集会を党派性ある政治集会にしたいというのがその希望であった。
年頭集会は動員においてほぼ成功をかちとった。しかし集会の形式と内容に関しては問題を残した。それはこの政治集会に参加した人びとから寄せられた批判の要望が明確に示している。
「七〇年闘争の日本の民主主義革命・社会主義革命の関連を捉える理論的中核の形成」「七〇年、七〇年代を通じて革命への道を確立する前衛の必要性と労働運動における拠点の必要性」など、党内外の共通の問題意識にもにもかかわらず「七〇年闘争と主体形成についての関連が不十分、すなわち反日共諸派のなかで真に前衛づくりについての方針をぜひ聞かせてほしかった」「生産点におけるたたかいを貴党は職場反戦を軸としてゆくとのことだけど、各種反戦組織全体を容認するのか?統一戦線に対する方針がみられない」「労働者党のカラーがほんとうに打ち出されただろうか。三派とのケジメをはっきりさせてほしかった。」等々。そして最後に「最も前衛党たるうる党でありながら、なれないでいる党」と批判は手きびしかったのである。
そしてここに提起されている問題こそ、公然ないし隠然と、あるいは党の指導について、あるいは機関紙「統一」編集の基調について各地の党組織から出されている意見・批判などの根底にある問題であり、来るべき第三回大会でわれわれが前進的に解決しなければならない課題である。
7、細胞活動と反戦青年委員会活動
一・一七年頭集会に参加して、「最も前衛党たりうる党でありながら、なれないでいる党」と感想を書きとめたものは、実はこの集会の動員に全力をあげてきた職場の一同志、ブルーカラーの労働者であった。
では、こうした職場の同志たちの活動はどうであったか。
東京都党の青対部が昨春の諸闘争の中で職場と産業別の反戦青年委員会の組織に取組み、デモの動員においても組織の拡大においても一定の成果をあげながら、やがて秋の闘争では中央ならびに都党の基本的な政治的立場、行動方針の不明確さのもとで(青対指導部自体の問題も含みながら)その活動を弱体化したことはすでに指摘した。しかし、そうした条件のもとでも、わが青年党員は着実な活動を続けていたのである。
たとえば印刷産業の同志は、はっきりした組合組織にさえなっていない会社の御用組合のなかで、とかく会社側に傾く共産党フラクションに対抗しながら、細胞新聞を発行し職場闘争を組織して、賃金体系改善の春闘を準備していたのである。
また、他の産業の同志は、極端に賃金格差のある会社の賃金制度を改善するために、従業員全体の年齢別賃金を詳細に調査し、その平均額に満たぬ過半数の労務者の要求に応えて格差是正の方針を大衆的に決定し、春闘で九日間のストを打つことに成功した。
これはそれ自体としては、組合運動であり、経済闘争である。しかもそれは「民同型」指導による「上からのスケジュール闘争」ではない。大衆の要求と自発性を組織するたたかいであり、党の活動である。
そして党員が先進的な活動家とともにこのような職場の闘争で大衆に責任を負うようになったことそこに簡単に電話一本でデモに出掛けるわけにはいかなくなった理由の一つがあり、政治行動の意義をあらかじめ明確にする大衆討議が必要になっているのである。
もちろん、細胞ブロックが成立し、地区委員会の機能が一応働いている地区や、闘争の伝統のある職場では、活動は政治的により高度のものがあった。
北部では、細胞は春闘を準備するとともに国鉄労働者の反合理化闘争、運賃値上げ反対闘争と連帯して宣伝活動を行い、また「王子野戦病院」撤去の闘争を再組織した。そのなかで反安保の行動集団も生まれている。
都職では「体制内」といわれる今日の組合の諸条件のうちにあって、それをも運用しながら反戦青年委員会が結成された。
しかし、こうした政治的行動とその組織――反戦青年委員会の発展の基礎に、日常的な職場活動・労働組合活動の積上げがあることを無視することは許されない。若い同志たちが職場の組合活動に取組むようになったことは後退ではなく前進であり、組合の戦闘化と団結の強化のために不断の努力を傾けてこそ、組合員の信頼をかちとり反戦青年委員会活動の拡大の基礎も作られるからである。
反戦青年委員会は単にいまラジカルになった青年をかり集めて街頭に動員するだけの組織でもなければ、組合を破壊しこれにとってかわる組織でもない。職場の労働者の政治的自覚をたかめ、行動を強化し、労働組合を組合員の圧倒的多数の意志を持って、政治的ストライキ・デモに動員してゆく推進力である。
こうした反戦青年委員会の性格と任務は「都職反戦」の結成に際しても激しい対立の基礎となった。
社会党・総評の自主的反戦青年委員会の改組、組合への従属の方針の誤りはおくとして(社会党・「民同」幹部ははじめから組合員の自主的な政治活動を恐れ、今日共産党フラクションまでこれに同調している。しかし、労働組合は本来組合員の政治的活動の自由を保証し資本の攻撃からこれを防衛しなければならない)。そこには二つの方向が対立し激しくせり合った。一つは、反戦青年委員会を集中組織とし指令一本で街頭戦に引出す戦闘部隊としようとするプチブルジョア・ラディカリズムの「街頭主義」の方向であり、他の一つは具体的な政治目標で職場の労働者を結集し、生産点を基礎に政治行動を推進し、これを政治的ストライキとデモストレーションを結合してたたかう原動力としようとするものである。
反戦青年委員会のこのような性格と任務の規定は明確にされなければならない。そこには「七〇年安保」と七〇年代の闘争に対する基本的な政治方針と闘争戦術の相異が根底にあるからである。
「職場反戦」の組織はこうして急速に青年労働者の間に拡大しはじめ、総評の改組・組合への従属政策を大衆的に批判攻撃し、自主性を公然と獲得しつつある(四月二十五日日比谷集会)。
しかし、それとともに反戦青年委員会と党の相異を明確にすることがいっそう重要となる。
反戦青年委員会は、当面の反戦反安保を政治目標に結集される政治的行動委員会であり、反戦反安保の闘争と日本の革命の関連を必ずしも明確にするわけではない。反戦青年委員会をそれ自体として革命を志向するものとするなら、それはこの組織のセクト的集団にするとともに、党を反戦青年委員会に解消して、それこそ党を「労働者反戦派の党」「職場反戦派の党」に引きさげてしまう。
党は反戦反安保の闘争を推進し反戦青年委員会活動の先頭にたつ。しかし、同時に党はこれをわが国の社会主義革命を実現する展望にたって指導する責任を負う。
党は七〇年安保と七〇年闘争を単に反戦闘争の側面からだけ捉えるのではなく、現代社会の階級矛盾を基礎に、すべての分野の問題を取上げて、そのうちに革命を推進する具体的契機を明確にしその集中点としての権力との闘争――日米帝国主義の軍事的・政治的・経済的同盟の打破、日本独占資本の支配の転覆・労働者階級の領導する新しい政権の樹立を目視してたたかう。
8、国鉄労働者の反合理化闘争の教訓
以上、われわれは過去一年の主要な政治闘争・反戦闘争と党活動を検討してきた。
だが、党が現代社会の矛盾をすべての分野にわたって取上げ、革命の発展の契機を追求するという立場つなら、少なくとも国鉄労働者の反合理化闘争、東大・日大を中心とする学園の闘争、そして沖縄県民の日本復帰と基地撤去の闘争を検討し、その意義と教訓を明らかにしなければならぬ。
すでにわが党の第二回大会の時点で国鉄労働者の反合理化闘争首都を中心に強力な順法闘争で闘われていた。そのなかで実際にたたかいの指導的役割を果たしてきた国鉄の一活動は「われわれは長年にわたって抵抗を続けてきたし、これからも抵抗を続ける。しかし、抵抗の先に何があるのか」と問題を提起していた。
国鉄の経営が現代の技術的進歩に対応する設備投資のすべてを独占資本の高利の貸付けに依存し、巨額な借金の利払いに追われてその負担をすべて従業員の合理化と乗客の運賃の相つぐ引上げでカバーしていること、しかもその経営は政府・与党の介入により、一方で赤字路線の廃止がいわれているさなかに他方で到底採算の見込みのない新線が建設され開通していることなど、もはや現在の政府と独占資本の体制が国鉄経営の資格と能力を喪失していることを余りにも明白にばくろしている。それは今日日本産業が国際市場で強力な競争力を持ち大型景気を謳歌しているなかで、信用による先行投資に依って達成された高度成長の矛盾を集中的に現すものであり、その基礎には現代の発展した技術――生産力と独占資本主義の生産関係の矛盾の発展がある。
国鉄労働者の反合理化闘争はこの破綻した国鉄経営とののっぴきならぬたたかいであり、まさにこのような闘争のなかでその戦術・順法闘争が展開されたことに重要な意義がある。それは職場の労働者一人一人の決意と自発的な職場の闘争組織――闘争委員会による行動であり、本来輸送管理の性格を包蔵し、「民同」思想――自然発生的なストライキの思想による「労務拒否」の「上からの画一スト」とは本質敵に異る。その根底にあるものは労働者の生産の主人公としての意識であり、それはダイヤ編成に対する闘争、軍事輸送反対の闘争を発展させ、さらには安保反対・軍事同盟破棄の政治的ストライキをたたかいぬく基礎となる。
合理化の重要な争点の一つ「二人乗務廃止」問題で国鉄当局がその実施を延期すると引換えに、これを「学識経験者」による「中立的」審議会にゆだねる協定を組合指導部との間に取付けたとき、これをめぐってわが党内には裏切りか否かの論争があったが、そこには一面では現場の強硬な反対に対する譲歩があるとともに、他面反合理化闘争の発展が必然に提起する労働者の経営・管理への介入・規制の要求と闘争に備える用意、これを議会主義的型態にねじまげ協調的企業意識に封じこめる企図がある。
闘争はこうして順法闘争の内包する思想と戦術型態をいかに前進させるかの問題を提起している。
しかし、重要なことは国鉄労働者のこの闘争の基礎には一九四九年の定員法による首切り以来二十年にわたる苦闘があり、そのなかで広島のわが党の組織をふくめて沼津その他いくつかの地域に拠点が築きあげられ、実際の指導的役割を果たしてきたということである。そこには不断の地道な闘争で防衛されてきた一定の自由がある。しかし、それは、「解放区」でも「労働者権力」でもない。まさに日々当局の締付とたたかっている拠点であり、今日の困難な反合理化闘争における抵抗の拠点である。
それを真に「解放の拠点」にするためには、全労働者・全人民を結集して独占資本の集中した国家権力との対決が必要であり、そのために拠点を拡大してゆく不断の努力が必要である。
「抵抗のさきに何があるのか」という問題提起はこの苦闘のなかから生まれた言葉である。もしこれに「一国革命でない世界革命だ!」と応えるなら、いかに空疎に聞こえることだろう。
ともかく、この一年間順法闘争をたたかっている国鉄労働者は一人もわが党に加盟しなかった。いつも「いま一歩」というところに止まっている。彼らがか、われわれ自身がか、いずれにしろ、わが党は現在、日本の階級矛盾の焦点にたち、多くの産業の労働者にその行動で大きな影響を与えている国鉄労働者の闘争の外側にいることだけは否定できない。これは真面目に考えねばならぬ問題である。
9、学園闘争とその根底をなすもの
東大・日大の闘争を中心とする各大学の闘争は、いよいよ中教審の答申に基づく政府の逆攻勢との対決を前にして、重要な段階に入っている。政府は大学当局を叱咤しながら、その頭をこえて容しゃなく警官隊を学内に侵入させ学生を弾圧して、体制の建直しを強行しようとしている。
これに対して、大学制度の根本的改革ないし変革を志向する側には依然として一致した明確な目標がない。「日本帝国主義大学打倒」のスローガンは、学生の激しい憤慨と破壊的な気分を表現しているとはいえ、具体的な政治的内容は不明確である。
沖縄基地が「核ぬき、本土なみ」となっても、ポラリスを主力とする今日の核戦略のもとではこの点は本質的に変わらない。さればこそ、佐藤政権はいまこれをもって返還交渉の出発点に臨もうとしている。彼らはそのために「即時無条件返還」の大衆行動でさえ一定の限度で利用できると考えている。
ところが、佐藤政権のこのような態度に対し安保反対を叫ぶ諸党派はかならずしもはっきりした攻撃を加えていない。四・二八におけるわが党の行動といえども問題の政治的対決点を明確にしていたとはいえない。
あらためて指摘するまでもなく沖縄同胞の「祖国復帰」「軍事基地撤去」の悲願は「復帰」と日米軍事同盟体制――日米帝国主義の階級同盟――打破ることと固く結びつけられてこそ真に達成される。
沖縄同胞の「祖国復帰」「基地撤去」の闘争が、現実に沖縄がベトナム侵略の基地とされ戦争の負担を押し付けられるとともに、核兵器の持込と関連する脅威が増大するなかで急速にたかまったことは確かである。しかし、その根底に戦後引続くアメリカ帝国主義の直接支配を通しての日米帝国主義の合意の重圧があったことを無視することはできない。それはアメリカの直接支配が佐藤の「施政」となっても本質的に変らない。(日本憲法の適用と日本独占資本の経済的進出によって一定の自由の拡大と物質的条件の改善はあるであろう。日本独占資本がそれによって現在の沖縄同胞の闘争を緩和しようと考えていることも否定できない)
沖縄同胞の過去二十余年の苦悩と闘争は、それゆえに単なる民族的反戦的なものではなく階級的、革命的な要因をその根底に内包しているのであり、さればこそ「島ぐるみ」の闘争の中に漸次労働者階級の指導性が明らかな姿を視しゼネストが日程にのぼってきたのである。
二・四ゼネストが所期の発展を示さなかった経緯から、そこになお多くの困難のあることは十分推測できる。だが、まさにそれゆえにこそ、本土の労働者階級の「七〇年安保」と七〇年闘争を、明確な階級的立場にたった社会主義を展望する日米軍事同盟打破の闘争に発展させることが決定的に重要となる。そうしてこそ、沖縄に対する本土の連帯の意義は明確なものとなり、労働者階級のへゲモニーのもと、わが国社会主義革命の過程における民族的課題、反戦的課題の正しい解決を達成する方向と可能性が得られる。(次号へつづく)